運動競技にノンバイナリー部門

東京のどこかで開催されるマラソンでノンバイナリー部門を作るとか作らないとかっていう話が出てるそうです。うーむ。個人的にはノンバイナリー、思うこといろいろあるんですよね。

 

基本的に、ノンバイナリーいいじゃん。と思ってます。肉体と精神が一致しない人がいるんだってことも理解できるし、そのままの自分でいられる社会って大事だと思う!

 

でも、女子の立場から見ると、ちょっとねえ。と思う事はあるんですよ。エマワトソンが、トランスジェンダーが女子トイレに入ってくる事って全然いいじゃん、もっと彼らのことを知って!みたいな事言ってたけど、「彼らがどんな風なのか」を知る事はできても、「どの人がそうなのか」までは知ることができないですよね?

 

最近にも、障がい者施設の責任者みたいな人が常々「僕は女性に魅力を感じない。」とか言っていて、同僚の女性の下半身を触って逮捕された。みたいな話を読みました。この話はどうでしょう?私も別に女性に惹かれはしませんが、女性の下半身を触ることもありません。これって、隠れ蓑にして悪いことしようっていう人がいるってことですよね。この事件がなくても、容易に予想できることだと思うんです。

 

トイレに、男性が入ってきた。私たちは、それを受け入れるか受け入れないか、恐怖だと感じるか感じないか。彼らを受け入れる心を持たない女性が悪いんでしょうか?友達や知り合いで、よく理解している人ならともかく。公衆トイレに見た目でも、言動でも判断する事はできない人がきたとなると、受け入れない私たちに問題があるような考え方はちょっと行き過ぎでは。

 

トイレに関して言えば、最近は「だれでもトイレ」っていう男性、女性、障がいを持った方々、誰でも使えるトイレが出てきてますね。あれは、すごくいい考えだと思うんです。「女子トイレは混みやすいから、だれでもトイレへ」という人は、当然男性だって使うんだと理解して使うわけです。(ただ、だれでもトイレって普通一個しかないです。)これと同じように、男、女、誰でも、みたいな3つのくくりがあるといいと思います。「だれでも」を使う人は誰が入ってきても驚かない前提で使うわけですから。

 

さて、運動競技。これまでにも海外の公式競技にトランスジェンダー(この場合男性→女性)が出場して優勝した。という事例がありました。これには、正直ビックリした、としか言いようがありません。そもそも運動競技に女性と男性の種類分けがある意味はなんでしたっけ?男性はYクロムゾンを持っているから、筋肉が女性よりも大きく発達するようになっていますよね。そもそもの体の作りが違うから、男性競技、女性競技と分けたのでは?そこへ、「心は女性です。」と言ってYクロムゾンを持つ人が女性の中に混ざって競技をするのは、女性にとってフェアでしょうか?

 

トランスジェンダーの選手が女性競技に出場してほしくない、と言っている短距離走選手の話をテレビで見たことがあります。彼女は一生懸命練習してしてきましたが、トランスジェンダーの選手が入ってきたら、いとも簡単に抜かれてしまうんです。歴史的に女性はいつも下に扱われてきて、いまでも男女同じように尊敬を受けているかというと非常に疑問ですが、ここへきて、また血の滲む努力をしてきた女子が簡単に二番手に成り下がらなければいけないのです。

 

私は、最初に言ったとおり、LGBTQいいと思ってます。自分らしく生きられるように社会が変わっていくといいと思っています。でもまた女子が蹴落とされるのを見るのはフェアじゃないと思うんです。少なくともYクロムゾンをもつ人は女性競技に入ってはいけない、とするのが適当では、と個人的には思います。

 

今日は結論まで長かった。。。(笑)ですから、今回のノンバイナリー部門の話し。賛成です。とにかく、何が最善かはやってみないと問題点も分からないですし。とはいえ、ノンバイナリー部門の中で、当然Yクロムゾンを持った人とそうでない人が混在する事になるわけですから、そこでノンバイナリーの中でも区分けするべきだ。とかって意見が出たり、男性部門では優勝できない人がノンバイナリーに出れば優勝できる、という考えでそちらで走ろう、という人も出てくるかもしれませんよね。どのように規制を設けるのか、など問題はあるでしょう。

 

この件に関しては、まだまだ思うところはあるんですが、今日はここまでにしておきます。長いから。(笑)